一筆☆啓上

観た映画、読んだ小説の印象を綴ります

「柔らかな頬」 桐野夏生 著

ジェイムズ・クラムリー作「酔いどれの誇り」などに登場する私立探偵ミロドラコヴィッチ三世の名前に因む主人公・村野ミロの活躍を描いたハードボイルド「顔に降りかかる雨」が初めて読んだ桐野夏生の小説だった。かれこれ30年程前のことだ。以来、彼女は私にとってお気に入りの作家になった

直木賞を受賞したこの「柔らかな頬」は、アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀長編賞候補にノミネートされた「OUT」と並び桐野夏生の代表作に当たるが、今回久々に読み直してみて、改めて完成度の高さを実感した

製版業を営む夫の仕事を手伝うカスミは取引先のグラフィックデザイナー石山と不倫関係にあった。お盆が近い夏の日、石山の所有する別荘に家族で招待されたカスミは、夫や子供、石山の妻の目を盗み、深夜に納戸で密会しふたりの時を過ごす。その翌朝、部屋へ戻って眠りを貪るカスミを置いて、夫たちと散歩へ出かけた五歳の娘・有香が途中で忽然と姿を消してしまう

男の作家で女を書けない人は思いのほか多いのではないか。逆もまた然りで、男を書けない女の作家も意外と多いような気がする。それはある意味当然のことで、恐らく細かな部分での異性の感覚は、人から話を聞くことは出来ても、現実味を伴ってストンと自分の内部に落とし込むのは相当に難しいはずだからだ。そんななか、男の本能的且つ生理的な感覚を的確に文章で表現出来る稀有な才能を有するのが桐野夏生であろう

有香の失踪後、当然ながらカスミとの関係は消滅、妻とも離婚、更には会社の倒産などすっかり人生が暗転してしまった石山。紆余曲折を経て、石山が久々にカスミと再会をした際に、彼女の後ろ姿を眺めながら次のように思う場面が出てくる

背中に食い込んだブラジャーから余る肉の部分、あれが好きだった。下着に締め付けられてはみ出る余剰の肉がその女の本質だと思っていたのだ。全くなくても多すぎてもいけない。カスミのは、程良い質感と量を備えていた。だが、そんなことなど今はどうでもいい。女はそれぞれ違う肉をはみ出させるのだから、男はそれを女自身だと思って受け止めればいいのだ

(文庫版下巻8頁より抜粋)

最初この箇所へ目を通したときに正直驚いた。女でどうしてこれが書けるのだろうと。いや、男でも書けないかもしれない。きっと桐野夏生だから書けたに違いない

カスミや石山を始めとして、登場人物がそれぞれ個性的な魅力に溢れている。取り分け出色なのが、30代半ばの若さながら末期の胃ガンに冒され、死が目前まで迫った元刑事・内海だ。担当の医師が自分に対し本当の病状を伝えないのに業を煮やした内海が、尾行のうえ掴んだ医師の不倫ネタで、全てを包み隠さず話せと強要する辺りの描写にはハードボイルド的な雰囲気が濃厚に漂う。内海はあるきっかけから有香の追跡をカスミたち夫婦に無償で申し出るのだが、中盤以降は彼の存在が物語を牽引していく。次第に衰弱へ向かう内海とそれを見守るカスミが行動を共にするうち不思議な絆で結ばれていく過程はバディものに似た味わいを感じさせる

エンタメ度の高い作品に贈られる直木賞を受けているのでその面白さはお墨付きだ。次の展開がどうなるのか知りたくて頁を繰る手が止まらなくなる。ラストについては賛否が分かれたらしいけども、犯人探しのミステリーではないので、私はこの終わらせ方で正解だった気がする

  • 書名:「柔らかな頬」
  • 著者:桐野夏生
  • 出版社:文藝春秋
  • 本の長さ:上巻 303頁、下巻 247頁(文庫版)
  • 発売日:2004/12/10(文庫版)