一筆☆啓上

観た映画、読んだ小説の印象を綴ります

「日没」桐野夏生 著

岩波で桐野夏生の作品に触れるというのも何か格別な思いだ。それは例えるなら、大衆に人気のある崎陽軒のシウマイ弁当を横浜中華街の老舗・聘珍楼(現在は閉店)で食す感覚に近いかもしれない

エンタメ系小説を書く作家・マッツ夢井のもとへ文化文芸倫理向上委員会なる政府機関から突然召喚状が届いた。疑問を感じながらも千葉県の外れにある指定場所へと足を運んだ彼女に待ち受けていたのはあらゆる自由を奪われた暗黒の日々だった

オーウェル「1984」やブラッドベリ「華氏451度」など、ディストピアを扱った小説の多くは近未来を背景とするが、本作では舞台を現代に設定した点が大きな特長だろう。法治国家だからと何の疑問も持たずに安穏と暮らしている裏側で、この話みたいに不条理なことが実際に行われていそうな、そんな言い知れぬ怖さを覚える

タブーや良識が及ばない部分にこそ人間の本質が在ると信じ、作中でレイプやペドフィリア、フェチなどを描いてきたマッツ夢井(松重カンナ)は、それらが世の中の風紀を乱す元凶だとして、お上から目を付けられ、改善を強要される。マッツを糾弾する役人たちが、揃ってアスリート然とした容姿をしており、ヘイトスピーチと文芸作品を同列で論じたうえに、映画の原作になるのが良い小説と平気で口にするような、如何にも「本」とは無縁の輩として描かれているところに作者の痛烈な皮肉が窺えよう

ジャンルに囚われず、あらゆる物語へ果敢に挑み、そのどれをも面白く書き上げてしまう希代のストーリーテラー桐野夏生の筆はここでも冴えわたり、最後の頁までほぼ一気読みに近かった。何処かスッキリせず、後味の悪さが残るラストも彼女らしい

言論・表現の自由という言葉は、一部人々の間で都合よく使われるケースも見受けられるが、改めて真の意味合いを考えてみたくなる内容だ。巻末の解説によれば、生命と人権、言論・表現の自由の擁護を基本理念に掲げる「日本ペンクラブ」の現会長を務めるのは、桐野夏生とのことである

  • 書名:「日没」
  • 著者:桐野夏生
  • 出版社:岩波書店
  • 本の長さ:416頁(文庫版)
  • 発売日:2023/10/14(文庫版)