「春の雪」三島由紀夫 著
文学だろうと大衆向けの作品だろうと、物語というものはやはり面白くなくてはならない。小説に限らず、映画の世界などでも、一般に難解=質が高いと思われがちだが、如何にして物を語るかという見地に立てば、読み手側の頁を繰る手が止まらなくなるほど面白い話こそ評価されるべきと言ってもいい
その意味では、輪廻転生をテーマとする四編から構成された「豊饒の海」の導入部分に当たる本作の展開は、三島由紀夫らしい濃密な文学的香りのなかに或る種のエンタメ的要素が加わって、この上なく面白い仕上がりとなっている。若き男女の悲恋を描いた内容を面白いとするのは適切でないかもしれないが、絶妙な語り口によるメリハリの利いた展開はやはり面白いのだ
主人公たる侯爵家の長男・松枝清顕(まつがえきよあき)を取り巻く登場人物の顔ぶれが個性に溢れ、話に彩りを添える。特にヒロイン綾倉聡子を世話する老女・蓼科(たてしな)の手練手管に長けた様子は優雅さの裏に隠された人間の煩悩を露わにし、強いインパクトを残す
三島由紀夫の豊かな語彙力と表現力に心を奪われっぱなしだった。ほんの些細な描写ですらも美しき絵巻物の如き記述へと昇華させてしまう彼の筆はまるで手品師の扱うステッキのようである。こんな風に言葉を操れたなら、どんなに素晴らしいか。なかでも私が惹かれたのは以下の引用部分。皇室への輿入れが決まっていながら、幼馴染である清顕との禁断の愛に胸を焦がす聡子。人目を忍び鎌倉の浜辺で彼と肌を重ねた聡子のことを、清顕の親友にして逢引を手助けする本多が学習院の同級生から借り受けた車を使って東京へ送る場面での一節だ
車はすでに東京の町へ入っていたが、空はあざやかな紫紺になった。暁の横雲が、町の屋根に棚引いていた。一刻も早く車が着くようにと念じながら、彼は又、この人生に又とないふしぎな一夜が明けるのを惜しんだ。耳のせいかと思われるほど、ごくかすかな音が、多分聡子が脱いだ靴から床へ落とした砂音が背後にきこえた。本多はそれを世にも艶やかな砂時計の音ときいた。(本書302頁、303頁より抜粋)
短いパラグラフのなかに情景と心情を巧みに織り交ぜたタッチはあまりに見事で、それを表す平仮名と漢字の配分も完璧に近い(「あざやか」や「ふしぎ」を意図的に平仮名にしてバランスを取っていると思われる)。さらに「きこえた」から「きいた」で締める流れ方も絶品だ。何よりも砂音と砂時計(聡子と清顕の関係にタイムリミットが迫っていることの暗示)の連鎖が素晴らしい。文士における「天才」をひとり挙げるならば、やはり三島由紀夫以外にいない
現在書店に並ぶ新装版では、三島由紀夫に影響を受けた小池真理子が解説を執筆と小耳にはさんだ。個人的にはこの解説もちょっと読んでみたいところである
- 書名:「春の雪」【豊饒の海(一)】
- 著者:三島由紀夫
- 出版社:新潮社
- 本の長さ:480頁
- 発売日:2002/10/01