一筆☆啓上

観た映画、読んだ小説の印象を綴ります

映画「暗殺の森」(1970)

ベルトルッチの名声を一躍高め、映画史上に残るマスターピースとして評価される作品だが、中身の濃いモラヴィアの小説に較べると、内容は随分と物足らなく感じる。登場人物の掘り下げ方が浅く、全くもって空虚で薄っぺらいのだ。構図、陰影、色彩にこだわったショットはたしかに素晴らしいものの、肝心のストーリーをこうまで骨抜きにされては映像美を称賛する気すら失せてしまう。様々なエピソードの背景となる描写がことごとく不足しており、その意味するところが判然とせず、単にあらすじを追ったダイジェストを見せられているかのようで退屈極まりない

主人公マルチェッロと、彼の内奥に容易には払拭出来ぬ「罪」の烙印を刻み込むリーノが再会する件はこの物語の肝となるが、状況設定を大きく変えたうえに、そこで交わされる重要な台詞も省かれたとあっては、もはや原作の主題は形骸化されたも同然だ。そもそも小説ではほとんど重きを置かれていない暗殺シーンが、映画のなかではハイライト扱いにされた時点で両者は方向性を違えたと言ってもいい

勿論、原作ありきの映画が必ずしも忠実に話をフィルムで表さなければならないわけではないし、監督の自由な解釈が含まれて然るべきと考えるが、元となる小説と著者へのリスペクトはやはり欠かすべきではないだろう。では、「暗殺の森」にそれが窺えるかと問われたならば、残念ながら私の答えはノーだ。書籍巻末の解説によると、本作に対するモラヴィアの反応は冷ややかだったそうだが、そんな彼の心情は何となく理解出来る

マルチェッロに扮したジャン=ルイ・トランティニャン、脇を固めるドミニク・サンダとステファニア・サンドレッリの配役は、まるで文章からそっくり抜け出てきたかの如き雰囲気で、これ以上は望めないほど完璧なだけに、尚更「脚色」の仕方をもう少し考えてほしかったと思う

  • ”Il conformista" 113分 (伊・仏・西独合作)
  • 監督:ベルナルド・ベルトルッチ
  • 脚本:ベルナルド・ベルトルッチ
  • 撮影:ヴィットリオ・ストラーロ
  • 出演:ジャン=ルイ・トランティニャン、ドミニク・サンダ、ステファニア・サンドレッリ

(2023-66)

「日没」桐野夏生 著

岩波で桐野夏生の作品に触れるというのも何か格別な思いだ。それは例えるなら、大衆に人気のある崎陽軒のシウマイ弁当を横浜中華街の老舗・聘珍楼(現在は閉店)で食す感覚に近いかもしれない

エンタメ系小説を書く作家・マッツ夢井のもとへ文化文芸倫理向上委員会なる政府機関から突然召喚状が届いた。疑問を感じながらも千葉県の外れにある指定場所へと足を運んだ彼女に待ち受けていたのはあらゆる自由を奪われた暗黒の日々だった

オーウェル「1984」やブラッドベリ「華氏451度」など、ディストピアを扱った小説の多くは近未来を背景とするが、本作では舞台を現代に設定した点が大きな特長だろう。法治国家だからと何の疑問も持たずに安穏と暮らしている裏側で、この話みたいに不条理なことが実際に行われていそうな、そんな言い知れぬ怖さを覚える

タブーや良識が及ばない部分にこそ人間の本質が在ると信じ、作中でレイプやペドフィリア、フェチなどを描いてきたマッツ夢井(松重カンナ)は、それらが世の中の風紀を乱す元凶だとして、お上から目を付けられ、改善を強要される。マッツを糾弾する役人たちが、揃ってアスリート然とした容姿をしており、ヘイトスピーチと文芸作品を同列で論じたうえに、映画の原作になるのが良い小説と平気で口にするような、如何にも「本」とは無縁の輩として描かれているところに作者の痛烈な皮肉が窺えよう

ジャンルに囚われず、あらゆる物語へ果敢に挑み、そのどれをも面白く書き上げてしまう希代のストーリーテラー桐野夏生の筆はここでも冴えわたり、最後の頁までほぼ一気読みに近かった。何処かスッキリせず、後味の悪さが残るラストも彼女らしい

言論・表現の自由という言葉は、一部人々の間で都合よく使われるケースも見受けられるが、改めて真の意味合いを考えてみたくなる内容だ。巻末の解説によれば、生命と人権、言論・表現の自由の擁護を基本理念に掲げる「日本ペンクラブ」の現会長を務めるのは、桐野夏生とのことである

  • 書名:「日没」
  • 著者:桐野夏生
  • 出版社:岩波書店
  • 本の長さ:416頁(文庫版)
  • 発売日:2023/10/14(文庫版)

「同調者」モラヴィア 著

4K版「暗殺の森」が公開された。残念ながら劇場へは足を運べないが、原作を読み返したうえで改めてDVDを鑑賞することにした

マルチェッロは少年の頃から自分のなかに潜む異常性に恐れ慄いていた。そして13歳の時に決定的な出来事が起きる。彼に性的な興味を抱き誘いをかけてきた男を銃で撃ち殺したのだ。以降、周りと同化することで普通になれると固く信じ、そうなるよう努めながら大人へと成長したマルチェッロにとって、当時のイタリアを席巻していたファシスト党の政治要員として働くのはある意味必然だった。そんな彼に向けて、党の上層部よりひとつの指令が下される

ベルトルッチが細部に至るまでこだわりぬいた「暗殺の森」の美しさは誰もが認めるところだが、この物語の本質を理解するには、映画だけでは十分でなく、三人称を用いて主人公マルチェッロの心理を丹念に記した小説に目を通さねばなるまい。特に少年期を描いたプロローグと彼が不惑間近の年齢になったエピローグ(それぞれ三章構成)はマルチェッロの人物像を把握するに当たり重要だ

己の犯した大罪によってピュアな魂は穢されたと思い込み、背負わされた重荷から自らを解放するべく必死に普通さを追い求めてきたマルチェッロが、人は誰しもいつしか純真さを失うものであり、それが普通なんだと悟らされる終盤の描写は「同調者」のストーリーを象徴するシーンと言え、非常に印象深い

何をもって普通とし、何をもって正常とするかの判断基準には曖昧さが伴う。マルチェッロは長いものへ巻かれることがその答えだと信じて疑わなかったが、ではもし大きな勢力の方向性自体が間違っていた場合、唯々諾々とそれらに染まる行為は果たしてノーマルと呼べるのか。決して難解な筋書きではないが、主人公の思考を通して作者の意図を汲む必要がある

映画のハイライトとなる暗殺の場面だが、小説ではマルチェッロはその現場に居合わせておらず、概要を新聞記事と諜報員オルランドの話で知るに過ぎない。またラストについてもベルトルッチの意向で大きく改変されている。従って、本作における映画と小説の関係性は謂わば「二卵性双生児」的な間柄と捉えるのが適切だろう。ただ個人的には小説のエンディングの方が腑に落ちるし、全体の流れを見ても結びとしてはこちらが相応しく感じられる

巻末の解説によれば、この話を執筆したモラヴィアに対し、ファシズムを否定していないとの理由で一部の評論家たちは批判を浴びせたそうだ。だがこれはファシズムを直接的に扱ったポリティカルな作品ではなく、日和見主義の男の生きザマを描いたドラマであり、あくまでもファシズム自体はその背景と考えれば、モラヴィアの筆こそが正しかった、そういう気がする

  • 書名:「同調者」("Il conformista")
  • 著者:アルベルト・モラヴィア
  • 訳者:関口英子
  • 出版社:光文社
  • 本の長さ:616頁
  • 発売日:2023/01/11

映画「赤い天使」(1966)

数ヶ月前に観た「清作の妻」は、私が監督・増村保造に抱いていたイメージをいい意味で覆す傑作だった。そして今回鑑賞したこの「赤い天使」の内容もまた、それと肩を並べる重厚さであり、彼の類まれな演出力に対してはただ感嘆する以外になかった

日中戦争最中の前線に配属された従軍看護師の姿を感傷に流されずリアリズムに徹して描いた様子は、ロッセリーニ「無防備都市」などに通じ、独白を用いたうえでの抑制されたドライな語り口はハードボイルド小説を想起させる。本作がフランスを始め欧州で評価が高い理由のひとつには、あるいはそうした部分が挙げられるのかもしれない

主人公の西さくらが両腕を失った兵士の肉欲を慰める件で、男が足指で女の秘部をまさぐる場面は増村保造らしい淫靡さが漂う。戦争ドラマとエロチシズムを融合させる芸当は恐らく誰にも真似出来ないのではなかろうか

人と人とが殺し傷つけ合う無意味さを問いかける一方で、話の中心にはヒロインのひたむきなまでの純粋な愛が据えられており、その点では「清作の妻」に符合した異色のラヴストーリーだ

複数のエピソードを挿入しながらも、極力無駄なショットを削ぎ落して、90分強の尺に収めたソリッドな構成は見事としか言いようがない。120分以上の長さが当たり前になってきた昨今の映画のなかには半ば不必要と思えるシーンも散見され、各シークエンスにおける配分検討の必要性を改めて感じさせた

白衣を血で染めつつ負傷兵たちの救護に当たり、終盤では相手の襲撃を受けて自らも銃を手に取るさくらのタフネスなキャラクターは、リプリー(「エイリアン」)やサラ(「ターミネーター」)の原型に近いものを窺わせる。「さくらはパッと咲いて、パッと散る」彼女のそんな台詞が耳に残って離れない

  • "The Red Angel" 95分 (日)
  • 監督:増村保造
  • 脚本:笠原良三
  • 撮影:小林節雄
  • 出演:若尾文子、芦田伸介、川津祐介、赤木蘭子

(2023-65)

 

 

映画「欲望という名の電車」(1951)

数日前、「欲望という名の電車」の新たな舞台公演が発表された

主役を任された沢尻エリカについて、私はかろうじて名前と顔が一致するくらいで、出演した映画やドラマの類は一切観ていない。従って彼女の俳優としての力量がどの程度なのかは全く見当もつかないのだが、これまでのキャリアを確認したところでは、新人賞などを授与されてもおり、それ相応の才能は持っていると考えて然るべき人物なのだろう。ただ、しばらくブランクが空いての復帰作、尚且つ初めて経験する舞台で演じるのが、よりによって難易度の極めて高いブランチ役とは随分思い切った選択をするな、というのが、このキャスティングにおける率直な受け取り方だ

まあ、憶測であれこれ御託を並べても仕方がなく、本来なら実際に自分の目で鑑賞するのが一番なのには違いないけども、残念ながら完成度が未知数のものに大枚を投じる余裕は、今の私にはない

けいこ不足を幕は待たない、と梅沢冨美男は「夢芝居」で歌っていたが、兎にも角にもエリカ嬢の健闘と公演の成功を外野席から祈っている

~ 昨年10月、他サイトへ書いた記事を部分的に加筆修正して以下に再掲します ~

>>>>>>>

映画における最高の演技をひとつ挙げるならば私は迷わずに本作のマーロン・ブランドを選ぶ。彼がブロードウェイの舞台でも同じ役を演じていることを考えれば映画演劇史上最高と評しても決して言い過ぎではないだろう。それくらいに「欲望という名の電車」に見るブランドの存在感には圧倒される

テネシー・ウィリアムズの創造したスタンリー・コワルスキーという男はシェイクスピアが世に送り出した様々な登場人物たちに劣らず個性的で強烈なインパクトを放つ。全身がエネルギーで満ち溢れ、獣のごとき荒々しい生命力を発散するスタンリーを演じるに当たってブランドは、ゴッホの描いた履き古してボロボロになった革靴の絵画にインスピレーションを受け、キャラクターのなかに「都会に出てきた農民」のイメージを重ねていった

役柄の内面にフォーカスし、リアルな感情表現を追求するスタニスラフスキー式メソッドを用いたブランドの演技を「革新的」とするならば、一方のブランチ・デュボアに扮したヴィヴィアン・リーの演技はあるいは「古典的」と呼べるのかもしれない

若かりし頃に経験したトラウマから情緒不安定となり、身を寄せた妹の家で義弟のスタンリーからレイプされて完全に精神が崩れるブランチ役でリーは鬼気迫るような熱演を披露する。しかしながらブランドと比較するとその演技はあまりに大袈裟でいかにも演劇的に感じられてしまうのは否めない

しかし、この物語自体がポーランド系移民のブルーカラーながらもいずれは成功を収めて金や地位や名誉を掴み取りたいと欲する「新世代の庶民」スタンリーと、アメリカ南部に広大な土地を所有していた領主一族出身で「旧世代の上流」ブランチの対立を軸にしているのを思えば、ロックンロール的なブランドとクラシック的なリーのコラボレーションはこれ以上ないほどに絶妙の配役だったという気もする

原作者のウィリアムズは感受性豊かで繊細なものが粗野なものに破壊されることこそ本話の主題だと語っているが、同じ図式は例えば環境汚染や戦争、マイノリティへの差別など今なお世界中の至るところで繰り返し表面化しており、まさにその点に「欲望という名の電車」が時代を超えて人々の心を惹きつける理由があるのではなかろうか

  • "A Streetcar Named Desire" 122分 (米)
  • 監督:エリア・カザン
  • 脚本:テネシー・ウィリアムズ、オスカー・ソウル
  • 撮影:ハリー・ストラドリング
  • 出演:ヴィヴィアン・リー、マーロン・ブランド、キム・ハンター

映画「禁じられた情事の森」(1967)

カーソン・マッカラーズが著した「心は孤独な狩人」の高い完成度には唸らされた。そこで今回はその天晴な処女作に続き、彼女が筆を執った「黄金の眼に映るもの」の映画化作品を改めて鑑賞することにした

アメリカ南部の陸軍兵舎。レオノーラと同性愛者の夫ウェルドンの仲はもはや完全に冷え切っており、彼女は隣に住むモリスとの不倫で満たされぬ思いを解消していた。一方のウェルドンも自分の部下にいつしか心を奪われるが、その兵士が惹かれていたのはレオノーラの存在だった

登場人物たちの複雑で繊細な心情がもつれ絡まり合って不穏な雰囲気を醸し出す様子は「心は孤独な狩人」とも共通し、如何にもマッカラーズらしい世界と言える。だが、彼女の真骨頂たる内面描写を映画のなかで実践するにはどうしたって限界があるため、単なる表面上のイザコザに終始した印象は否めない。歪んだ人間関係がもたらす悲劇は題材的に見れば大変興味深く、現在絶版となっている訳本をぜひ復刊させてほしいところだ

もともとウェルドン役には希代の名優モンゴメリー・クリフトが予定されていた。類なき才能で50年代初めのアメリカ映画演劇界を牽引したモンティだが、エリザベス・テイラー宅で催されたパーティーの帰路に自動車事故を起こし顔面を負傷。整形手術によってカムバックはしたものの、以前のような細かい表情を作るのは難しく、完璧なまでの俳優像を理想としていた彼は自らへの失望で酒とドラッグに溺れスクリーンとは遠ざかる。そんなモンティを気遣い、親友リズの企画したのが本作だった。しかし彼女の計らいも虚しく、撮影前にモンティは45歳の若さで急逝。代役に立てられたのが彼の好敵手と呼ばれたマーロン・ブランド、という経緯がある。ただ、モンティとマーロンでは個性が異なるので、仮にモンティがウェルドンに扮していたらやや趣が変わっていたかもしれない

それにしてもこの邦題はあまりに酷い。原題をほぼ直訳した「黄金の眼に映るもの」はまだ理解出来るが、まるで陳腐なブルーフィルムの如き「禁じられた情事の森」のタイトルからは一片の翻訳センスも感じられない。これには「アイ・ラヴ・ユー」を「月が綺麗ですね」と表現した文豪も草葉の陰で「Why?なぜに?」と困惑しているのではなかろうか

  • ”Reflections in a Golden Eye" 108分 (米)
  • 監督:ジョン・ヒューストン
  • 脚本:チャップマン・モーティマー、グラディス・ヒル
  • 撮影:アルド・トンティ
  • 出演:エリザベス・テイラー、マーロン・ブランド、ジュリー・ハリス

(2023-64)

 

映画「未来よ こんにちは」(2016)

個人的に、映画の要素として「感動」やら「ハートウォーミング」やらを求めていないので、通常ならこの何とも前向きな邦題の付けられた作品には一切見向きもしないところなのだが、今回は監督のミア・ハンセン=ラヴに関心があったのと、主人公の年齢が自分と同じ50代というのがあって、鑑賞する気になった

公私とも充実した日々を過ごしていた哲学教師ナタリーは、ある日突然、夫から「好きな人がいる」と告白され、思いも寄らず離婚する羽目に。さらに、痴呆症のため施設へ入れた母親の急逝や娘の出産、かつて指導した生徒との触れ合いなど様々な出来事を経験した彼女は改めて自らを見つめ直す

パリの高校でナタリーが教えるのは哲学。高校の授業科目で哲学を学ぶなんて、流石はデカルト、パスカル、サルトル、フーコーを始め数多の偉大な哲学者を輩出したフランスらしい。なんでもミア・ハンセン=ラヴの両親も揃って哲学者と聞く。従って、本作におけるナタリーや夫ハインツ(彼も哲学を教えている)の言動には監督の目から見た母と父の姿が少なからず投影されているのかもしれない

ひとりの女性を、ヒロイ二ズムやセンチメンタリズム抜きに、等身大のまま描いた点がいい。離婚後のナタリーに新たな恋が芽生えるみたいな安直な展開にならなかったのも好感が持てる。随所でエスプリが効いており、テレビ放送でサルコジ(元フランス大統領)が映された際にナタリーの母親が口にする「この男、誰なの?下品な顔ね」にはたまらず吹き出してしまった

細部までとても丁寧に作られた印象で、全体に監督のこだわりが窺える。ただ、映画館で隣に座った男から後を付けられ、ナタリーが路上でいきなりキスされる件だけは、話の流れにフィットしておらず浮いていた。あの場面は彼女にセクシャルな魅力が失われていないことを示す意図で挿入したに違いないが、カットしても恐らく支障はなかっただろう

ファッションやインテリアを含め、知的中産階級に属すナタリーのライフスタイルが素敵だ。母親が飼っていた黒猫「パンドラ」の存在がちょっとしたアクセントになっている点も面白い

  • "L'avenir" 102分 (仏・独合作)
  • 監督:ミア・ハンセン=ラヴ
  • 脚本:ミア・ハンセン=ラヴ
  • 撮影:ドニ・ルノワール
  • 出演:イザベル・ユペール、アンドレ・マルコン、ロマン・コリンカ

(2023-63)