一筆☆啓上

観た映画、読んだ小説の印象を綴ります

「老人と海」ヘミングウェイ 著

1920年代から30年代にかけて活躍したアメリカの作家たちを指す「失われた世代」という言葉の響きが、若い頃の私にはやたらと格好良く思え、それらの中心的存在だったヘミングウェイの小説に俄然夢中になった。当然、代表作「老人と海」にも目を通したのだが、現在となってはあまり記憶に残っておらず、忘却の彼方へ消し去られた。此度、新たな解釈による訳本が出版されたのを機に、およそ40年ぶりに本作と向き合った

90日近く獲物に恵まれずにいる老漁師と巨大なマカジキ、サメらとの攻防を描いたストーリーには、神話にも似た荘厳さが漂い、その研ぎ澄まされた描写はまさにシンプル・イズ・ベストの極みと表現するのが相応しい。単身で大海原の沖合へと小舟を進めた主人公サンティアーゴはさかんに独り言を呟くのだが、そんな彼の様子を一人称ではなく三人称を用いて著した点に斬新な印象を受ける

これまで一般に「少年」と訳されてきたサンティアーゴの相棒マノーリンを本書ではハイティーンの「青年」として捉えた。疑似父子の側面が窺える彼らの結びつきを考えれば、こちらの解釈の方がシックリするのは確かだ

ピュリッツァー賞とノーベル文学賞を受賞し、傑作として名高い「老人と海」だが、かつて読んだときには、正直言ってたいした感想は持てなかった。だが、今回は違った。万物に対して尊敬の念を向けるサンティアーゴの生き方に心を揺さぶられ、終盤で疲弊しきった彼が尚も闘う姿には涙腺が緩んだ。それは多分私自身が年を取り、枯れつつあることと関係しているのかもしれない

老人はヤンキースに在籍した花形選手ジョー・ディマジオのファンという設定なので、文中ではメジャーリーグに関する話が幾つか記されている。そのなかにジョージ・シスラーの名前があった。彼はイチローが2004年にMLB年間最多安打を更新(262本)するまでの記録保持者だったプレーヤーだ。意外なところで世界に名だたる文豪と日本野球の繋がりを見つけ、思わず私がニンマリとしたのは言うまでもない

  • 書名:「老人と海」("The Old Man and the Sea")
  • 著者:アーネスト・ヘミングウェイ
  • 訳者:越前敏弥
  • 出版社:KADOKAWA
  • 本の長さ:160頁
  • 発売日:2024/01/23

「野生の棕櫚」フォークナー 著

小説におけるオールタイムベストに「八月の光」を挙げている私は、その著者フォークナーの文庫最新刊に当たる本作の発売を楽しみにしていた

ミシシッピ州に属す架空の街(ヨクナパトーファ郡)を舞台に、様々な登場人物たちの人生が交錯するサーガ形式であったり、或いは、代表作「響きと怒り」に用いられた、言葉を持たない(話せない)者の意識の流れを綴った文章表現であったりという具合に、小説の可能性を常に追求し続けた作家、それがフォークナーと言っていいだろう

そんな革新派文士の彼が、ここで試みたのは、異なるふたつのストーリーを交互に語り進めていく「二重小説」だ。元医学生と人妻が世間のあらゆるシガラミから逃れるべくアメリカ各地を放浪する話と、ミシシッピ河の洪水で取り残された女を救う囚人を描いた話は一見すると全く別の物語のようだが、どちらも「懐妊」をキーワードにして、底辺では共鳴し合っており、私には前者が「旧約聖書」アダムとイヴの楽園追放を、後者が「新約聖書」ヨゼフ、マリア、イエスの聖家族をモチーフにしている風にも感じられた。こうした重奏的な物語の構成は如何にもフォークナーらしい独自性に溢れ、読み手をたまらなく魅了する

ただ残念なのは、日本語訳に滑らかさが欠けているため文章がかなり読みづらく、スンナリと内容を把握出来ない箇所がいくつもあった点だ。途中で頭が混乱してしまい何度頁を戻ったことか。本書は50年近く前に学研より出版された世界文学全集に依ると巻末に記されていたが、今回敢えて文庫を刊行するのであれば版元には新訳に挑んでほしかったと思わずにはいられない

  • 書名:「野生の棕櫚」("The Wild Palms")
  • 著者:ウィリアム・フォークナー
  • 訳者:加島祥造
  • 出版社:中央公論社
  • 本の長さ:464頁
  • 発売日:2023/11/21

映画「aftersun/アフターサン」(2022)

台詞に頼り過ぎず、流れのなかで観客のイメージを喚起するように企図された映画脚本こそが理想と考える私にとって、この「アフターサン」はかなり好みに近いカタチと言える

思春期を迎えた娘ソフィとその父親カラムのひと夏のふれあいを描いたストーリーは主にふたりのやり取りで展開し、交わす会話から徐々に親子の背景が明らかになる。そこには事件性を帯びた出来事が突然起こりそうな漠然とした不安感などもうっすら漂っていて、思わず最後まで引き込まれてしまう

ソフィがカラムと一緒に歌おうとしたカラオケ曲がR.E.M.の「ルージング・マイ・レリジョン」だったりするので、舞台は携帯電話やパソコンがまだ一般には普及していなかった90年代初め頃の設定なのだろう。お互いに距離の取り方を探り合っているかのようにも見える彼らのコミュニケーションツールがハンディビデオという点が、時代をよく反映している

ソフィに扮したフランキー・コリオの表情や仕草が、「レオン」出演時のナタリー・ポートマンを彷彿とさせた。オーディションで選ばれた点も両者に共通する。コリオの存在無くして本作は成立しなかったに違いない。今後の活躍が大変楽しみである

【★★★★★★★☆☆☆】

  • "Aftersun" 102分 (英・米合作)
  • 監督:シャーロット・ウェルズ
  • 脚本:シャーロット・ウェルズ
  • 撮影:グレゴリー・オーク
  • 出演:ポール・メスカル、フランキー・コリオ

(2024-8)

映画「めし」(1951)

以前にも当ブログ内の記事に書いたのだが、私はいままで小津安二郎の作品をただの一本も観ておらず、それゆえ、彼にとっての「ミューズ」とも言える原節子については殆んど予備知識を持たなかった

夫との関係に倦み、淡々とした味気ない結婚生活に身も心も疲れ果てた女が本作における原節子の役どころである。所帯染みた雰囲気と乱れ髪、おまけに恰好は割烹着姿とくれば普通なら冴えないことこの上ないはずなのに、なぜか彼女はキラキラとしている。これが本当のスター、そう思わせるに十分な輝きを放つ

繊細な心情描写に長けた成瀬巳喜男の的確なディレクションもあるのだろうが、ちょとした苛立ちや嫉妬の際に覗かせる表情がとても自然で、演技の才能を感じる。彼女の経歴を確認すると特に俳優としての勉強はしていないらしいので、きっと天賦のものなのだろう

主人公の同級生や知り合いのシングルマザーに関する挿話の入れ方が押しつけがましくなくていい。先日鑑賞した「波紋」のレビューで最近の映画はやたらにストーリーを盛り込みすぎると記したが、物語の構成としては70年以上前に製作されたこちらに軍配が上がるのではないか

妻の顔を見れば「腹が減った」と口にする無神経な夫と暮らす毎日に嫌気のさしたヒロインが、そんな平凡な日常こそが細やかな幸せなんだと気付くラストに何だかこちらもほのぼのとした気分にさせられた

【★★★★★★★★☆☆】

  • "Repast" 97分 (日)
  • 監督:成瀬巳喜男
  • 脚本:井出俊郎、田中澄江
  • 撮影:玉井正夫
  • 出演:原節子、上原謙、島崎雪子、進藤英太郎、杉村春子、小林桂樹

(2024-7)

「一九八四年」オーウェル 著

オーウェルが書いた近未来世界から40年の節目を迎えたこともあって、今年読む最初の一冊には本作を選択した。この小説に目を通すのはもうこれで何度目かとなる。コンラッド「闇の奥」と同様、小生ごとき凡人では永遠にオーウェルの意図した真理へは辿りつけないだろうと思いつつも、その抗いがたい哲学的ディープさに魅了され、いつの間にかまた頁を開いてしまう、そんな物語だ

様々な考察は専門家たちに任せるとして、ただ単に小説が好きなだけの素人に過ぎない私は「一九八四年」を、極端に思考が閉ざされた社会における「生」へのあくなき渇望を描いたラヴストーリーとして捉えている。三部で構成された話のほとんどが重く澱んだ暗灰色のシーンで展開するなか、主人公ウィンストンと恋人ジュリアのアナーキーな逢引に主眼が置かれた第二部のみに色彩を感じるのは、きっとそこに人間らしい情欲が描かれているからなのだろう。密会場所たる骨董品店の二階部屋からふたりが見た、庭で洗濯物を干す女の逞しい姿は市井の人々が生きながら死んでいる時代の「生命力」を象徴し、彼女の持つ美しさにウィンストンが気づかされる場面は取分け印象に残る

興味深いのは、ビッグブラザーなる男の独裁政権下において、党に属す中間層の人々が私生活は勿論、思想に至るまで徹底して監視管理されているのに対し、人口の85%に当たる下級層(劇中ではプロールと呼ばれる)には酒やサッカー、ポルノグラフィなどの娯楽・嗜好がある程度許容されているところだ。目前に適度の飴を差し出され、骨抜きにされた民は支配者にとって全く脅威の存在ではないという部分に、一般的な「全体主義」の解釈とは異なるオーウェルの着眼点が窺える

党が推進する政策のひとつに言語の置き換えが記されている。同じ意味を表す言葉の集約(例えば、「とても」「大変」「非常に」「この上なく」を「超」「倍超」に)、あるいは語句を省略して縮める、これら指針の裏側には語彙を減らして知性を削ぐ政府の狙いが透けて見える。よく考えれば、我々は似たような変換を普段何気なく行っているわけだが、もっと言葉の重要性に関心を持つべきなのかもしれない

人間は考える葦である、と語ったのはパスカルだったか。生成AIの発達で今後ますます思考力が乏しくなる可能性の高い人間に果たして未来は開けているのか。「一九八四年」を手に取るたび、そうした不安が頭をよぎる

  • 書名:「一九八四年」("Nineteen Eighty-Four")
  • 著者:ジョージ・オーウェル
  • 訳者:高橋和久
  • 出版社:早川書房
  • 本の長さ:512頁
  • 発売日:2009/07/18

映画「波紋」(2023)

俳優・筒井真理子の存在は「淵に立つ」を劇場で鑑賞したときに初めて知った。あの作品で筒井が演じた人物は、或る出来事を境に、その前後でまるっきり別人になったかのように映り、そうした内面から滲み出す雰囲気のあまりに見事な変化は、ウェイト増加という謂わば外面的方法によってボクサーの凋落を体現したロバート・デ・ニーロのアプローチを超えたとすら思わせた

心のなかの細かな襞を的確に表し、感情を素早くシフトチェンジさせる筒井真理子の類まれな才能は本作でも如何なく発揮され、彼女が光石研や木野花、柄本明らユニークなバイプレーヤーたちと共演する様子は、芝居の観点ではとてもワクワクさせる。しかしながら作品自体は、肝となるストーリーに一貫性を欠き、結局何を描きたいのか分からぬまま最後は唐突とも言えるワンショット撮影で幕が閉じられてしまい、全体として見ると中途半端に終わった印象の方が強い

短い動画に慣れた観客の目を意識してなのか、最近の映画はやたらと話を詰め込む傾向にあるのではなかろうか。この「波紋」も例外ではなく、夫の失踪を発端として新興宗教へ救いの道を求めた主人公の物語に対して、幾つかの話が絡まる。タイトルの意はたったひとつの水滴が波紋を呼ぶことと考えられるが、結果的に枝葉を付けすぎたために幹がグラついた気がしてならない

前述のラストにしても、筒井の熱演ぶりは認めるにせよ、「これが趣味だったなんて一切聞いてないよ(頻繁に流れるスコアで前振りしていたのだろうが)」と半ばシラケ気味の感想しか持てなかったのが率直なところだ

いささか辛辣な評となったが、自身で脚本も手掛けた荻上直子の意欲は伝わってきた。ぜひ次回作に期待したい

【★★★★★☆☆☆☆☆】

  • "Ripples" 120分 (日)
  • 監督:荻上直子
  • 脚本:荻上直子
  • 撮影:山本英夫
  • 出演:筒井真理子、光石研、磯村勇斗、キムラ緑子、木野花、柄本明

(2024-6)

映画「日曜日には鼠を殺せ」(1964)

一度聞いたらついぞ忘れそうにない強烈なインパクトを持つ邦題は原作となった小説のタイトルがもとのようだ(原題は黙示録の一節「蒼ざめた馬を見よ」)。今回これを鑑賞しようと思い立ったのは他でもなく題名に惹かれたからである

観るに値するか、時間の浪費かは映画冒頭の数分間で感じ取れる。なかにはアタマだけで尻つぼみのものも存在はするが、大抵は掴みが〇なら仕舞いまで水準以上の出来なことが多い。その点で、本作における、内戦終結後に外国へ逃亡した反政府ゲリラ指導者のところへひとりの少年が訪ねてくる件の余計な無駄を削ぎ落した描写は、面白いと確信させるに十分なオープニングと言える

レジスタンスで無神論者のマヌエル、20年越しで彼を追い「マヌエルを捕まえさせてくれ」と神に祈る警察署長ヴィニョラス、マヌエルの母から遺言を授かった神父フランシスコ。神への関わり方がそれぞれ異なる三者の人生が交錯する展開がいい。「ローマの休日」や「アラバマ物語」など謂わばアメリカの良心的な部分を体現してきたグレゴリー・ペックがここではタフネスなスペイン人・マヌエル役でとても渋い雰囲気を醸し出す。若い女の身体に見惚れるような人間味もチャーミングだ

雨あられと弾が飛び交う銃撃シーンに慣れた現在の観客には、もしかするとハイライトシーンはあっさりしすぎに映るかもしれないが、マヌエルが長らく実戦から遠ざかっているのを念頭に置けば、そうした過剰さを排したタッチこそが、あの名作「ジャッカルの日」へと繋がるフレッド・ジンネマン流リアリズムという気がしてくる

陰影に富むモノクロ撮影が素晴らしく、知られざるフィルム・ノワールのマスターピースとして推したい一作

【★★★★★★★★☆☆】

  • "Behold a Pale Horse" 118分 (米)
  • 監督:フレッド・ジンネマン
  • 脚本:J.P.ミラー
  • 撮影:ジャン・バダル
  • 出演:グレゴリー・ペック、アンソニー・クイン、オマー・シャリフ

(2024-5)