一筆☆啓上

観た映画、読んだ小説の印象を綴ります

映画「ワイルドバンチ」(1969)

以前から一度は観ようと思いつつ、なんだかんだと先延ばしにしてきた「ワイルドバンチ」をようやく鑑賞。ペキンパーの最高傑作として推す声も多く、期待は膨らんだが、かなり落胆させられる出来だった

冒頭と終盤の銃撃戦では如何にも「血まみれのサム」らしい切れ味が光るものの、要となるストーリーの描写が不足しておりカタルシスに欠ける。かつて、或る盗みの件でしくじり、現場から逃走したパイクと捕縛され監獄へ送られたソーントン。そのふたりが、前者は流れ者一味のリーダー、後者は彼らを追う賞金稼ぎとして向き合うのが本話の核になると思うのだけども、パイクとソーントンの双方が相手に対し、過去の経緯を含めて、どんな感情を抱いているのか、そこがさっぱり見えてこない。特にソーントンの人物像が不鮮明なのは大きなマイナスだ

普通に考えれば、自分だけ臭い飯を食わされる羽目になったソーントンがパイクを恨んでいてもおかしくはないし(フラッシュバック的に挿入される回想シーンでは、ヤバいと勘づいたソーントンがパイクへ忠告するも聞き入れなかった様子あり)、メラメラと復讐心を燃やしていてもいいはずなのだが、ソーントンの言動からはそんな素振りがほとんど窺えない。クールな男と言ってしまえばそれまでだが、物語を展開させるうえでは彼の冷静さが足枷になった気がしないでもない

傲慢な将軍率いるメキシコ政府を交え、「三つ巴」の形勢を呈すアイディアは面白い。ただ、ここでもソーントンら賞金稼ぎは蚊帳の外に置かれた感が否めず、最後は強盗団とメキシコ軍によるバトルだけで終わったのは非常に勿体ない

仮に私が演出・脚本の担当者なら、ハイライトはパイクとソーントンを共闘させ、将軍たちを倒したのちに対決。撃たれたパイクを尻目に立ち去るソーントンの後ろ姿をローアングルで捉えエンドマークとするだろうか。あまりに流れがベタすぎて、移り行く時代の「滅びの美学」とはかけ離れてしまうが

【★★★★★☆☆☆☆☆】

  • "The Wild Bunch" 145分 (米)
  • 監督:サム・ペキンパー
  • 脚本:ウォロン・グリーン、サム・ペキンパー
  • 撮影:ルシアン・バラード
  • 出演:ウィリアム・ホールデン、アーネスト・ボーグナイン、ロバート・ライアン

(2024-4)

映画「鞄を持った女」(1961)

ズルリーニの映画は昨年「激しい季節」を鑑賞しており、その際に本作もリストへ登録した。両者とも年上の未亡人に恋心を抱く青年を描いたものだが、同じくズルリーニ演出で以前より観たいと思いながら未だ願いが叶わずにいる「高校教師」の内容も、アラン・ドロン扮する教師が彼の生徒に惹かれる話と聞くので、所謂「愛があれば年の差なんて」系の主題によっぽど拘りを持つ監督なのかもしれない

道端に停めた車の助手席からヒロインが降り立ち、叢で用を足す場面で始まるオープニングがユニークだ。観る側からすると、このショットだけで彼女の人物像がおおよそは推測できる(そういう行為自体をあまり恥ずかしくないと思えるような生活環境で育ったのではないかなど)ので、これは或る意味とても計算されたディレクションと言えよう

全般に各シーンのカット割りを極力抑え、ふんだんに長回しを用いて丁寧に撮られた作品という印象を受けた。この方法は監督と俳優の双方に確かな技量が求められ、さらには絶対的な信頼関係がなければ成り立たないと考えられるが、それをラストに至るまで、ほぼ完璧に近いカタチで遂行した点において拍手を送りたい

俗な表現を使えば、思春期の若者が経験する「ひと夏の恋」を扱ったストーリーとなるが、そんな下世話な範疇では括れない崇高さを感じさせる佳作である。獏連姐さん的な部分とピュアな面とが同居する主人公アイーダ役をクラウディア・カルディナーレが好演。「ニュー・シネマ・パラダイス」で成人したトトを演じたジャック・ぺランがアイーダに恋するロレンツォ役で初々しい姿を見せる。果たして、あのエンディングでトトが目にするフィルムにはアイーダとロレンツォの抱擁は挿入されていただろうか

【★★★★★★★★☆☆】

  • "La ragazza con la valigia" 121分 (伊・仏合作)
  • 監督:ヴァレリオ・ズルリーニ
  • 脚本:レオ・ヴェンヴェヌーティ、ピエロ・デ・ベルナルディ 他
  • 撮影:ティノ・サントーニ
  • 出演:クラウディア・カルディナーレ、ジャック・ぺラン、ジャン・マリア・ヴォロンテ

(2024-3)

映画「LOVE LIFE」(2022)

矢野顕子のあの特徴ある声が個人的に今ひとつ好きになれなくて、彼女の楽曲をまるで知らない。従って、監督・脚本・編集を担う深田晃司がインスパイアされたタイトル曲についてもこの映画を観るまで全く聴いたことがなかった。そんなわけで私のなかでは矢野顕子と深田晃司のラインが容易に結びつかず、そこに何かしらの興味をかきたてられた

良いとか悪いとか、正しいとか間違いとか、単純にスパっと割り切れないグレーなところを描写する才能に長けている。それが、「淵に立つ」と「よこがお」を鑑賞しての深田晃司に対する率直な印象だ。本作の登場人物たちが思わず取ってしまう、後から自己嫌悪に陥るような言動の数々には、白黒つけられない灰色の極めてヒューマニックな部分が的確に表現されており、改めて監督の鋭さには感心させられた

物語の中心に据えられた大きな「喪失」。その気持ちというものはやはり当事者でなければわからず、周りが本当の意味で寄り添うのは不可能に近い。だから、主人公・妙子の再婚した夫や義理の両親が覗かせる冷めた反応は或る意味自然な態度と言えるだろうし、元夫(彼も当事者のひとりだ)が半ば反射的に見せる手荒な行為も自然な態度である。こうした謂わば「等身大」の人間味をリアルさを持って示す手腕は見事としか評しようがない

映画後半部で元夫の発する「忘れる必要はない」の台詞が、主題曲の歌詞「どんなに離れていても愛することはできる」と繋がり、強い印象を残す。ホームレスだった元夫の連れ込んだ猫が悠然と部屋を闊歩する様子に在りし日の息子の姿が重なり、彼(もしくは彼女)が新たなキューピッドとなって妙子たち夫婦が再生されることを予感させるラストもいい

【★★★★★★★☆☆☆】

  • "Love Life" 123分 (日・仏合作)
  • 監督:深田晃司
  • 脚本:深田晃司
  • 撮影:山本英夫
  • 出演:木村文乃、永山絢斗、砂田アトム、田口トモロヲ、神野三鈴

(2024-2)

映画「ジャイアンツ」(1956)

年明け最初に鑑賞する映画として、普段はどうしてもためらいがちな長尺のものを観ようと思い、かなり前にビデオを借りた記憶が残るのみで、内容自体はすっかり忘れてしまった本作をチョイスした

アメリカ南部テキサスに広大な土地を所有する牧場主が東部出身の進取的女性と出会い結ばれ、三人の子供たちが巣立つに至る過程を綴った話は、エリザベス・テイラー扮する勝ち気なヒロインが保守と偏見に満ちた風潮に対し異を唱える部分も含め、NHKの朝ドラに共通するオーソドックスな展開で、そこに特別な目新しさは感じられない

その、良く言えば「鉄板」、悪く言えば「平凡」なストーリーにアクセントを付け、飽かすことなく観客を惹きつける要素となっているのが、牧場下働きの身から石油を掘り当て財を成すジェット・リンクというキャラと彼を演じたジェームズ・ディーンの存在である

50年代初め、従来の演技とは全く異なる革新的な方法により、文化芸術やショービジネスの枠を超え、一躍「時の人」となっていたマーロン・ブランドに心酔するジミーは、スタニスラフスキー式メソッドを用いたアクティングは勿論、私生活における服の着こなしや立ち居振る舞いまでブランドを模倣した。そんなジミーを見かねたブランドは「他人の真似ではいずれ行き詰る」旨を忠告したと自伝に書き記されている*1

ジミーの僅かなフィルモグラフィのなかで、大体において彼を象徴する作品として取り上げられるのは「エデンの東」「理由なき反抗」だろうが、両者に刻まれたジミーの発声の仕方や所作などは、捉え方次第では或る種ブランドの形態模写のように映らなくもない。しかしながら「ジャイアンツ」では、謂わば「マーロン・ブランドⓇ」の鎧を脱ぎ捨て、自らのオリジナリティを発揮したうえで、感情が複雑に入り交ざった役柄と向き合った点に注目したい。俳優ジェームズ・ディーンは「ジャイアンツ」で語られるべきなのだ

前の文章で「平凡な」物語と述べはしたが、この映画の製作が70年近く昔だったのを考えれば、父権的社会構造や人種差別に問題提起したドラマは時代を先取りしていたと評する方があるいは相応しいのかもしれない。撮影当時23歳だったリズの凛とした姿が殊更美しく、主人公のジョーダンやジェット・リンクでなくとも一目惚れしてしまいそうだ。ただし、彼女が配役されたレズリーの駆る愛馬と同様に乗りこなすのは相当に難しそうだが

【★★★★★★☆☆☆☆】

  • "Giant" 201分 (米)
  • 監督:ジョージ・スティーブンス
  • 脚本:フレッド・ギオル、アイバン・モファット
  • 撮影:ウィリアム・C・メラー
  • 出演:エリザベス・テイラー、ロック・ハドソン、ジェームズ・ディーン

(2024-1)

*1:「母が教えてくれた歌」マーロン・ブランド/ロバート・リンゼイ著 角川書店刊

「東の果て、夜へ」ビル・ビバリー 著

大谷翔平と山本由伸のドジャース移籍が決まった。彼らふたりがメジャーリーグの同じ球団でプレイするなんて、野球ファンにとっては夢みたいだ。しかも山本由伸の場合、医学やトレーニング方法が進歩したとは言え、野手と比較すれば故障するリスクの高い「投手」というポジションにもかかわらず、12年もの大型契約。それだけでワールドシリーズ制覇を目標に掲げるチームが寄せる期待度の大きさが窺える。来季のドジャース戦中継が楽しみで仕方ない

此度そんな流れで再読したのが、数年前に英国推理作家協会の新人賞と最優秀長編賞を同時に授与された本書。原題は、ズバリ「ドジャース」。ただし、野球に関連した話ではなく、黒人ストリートギャングを描いたクライム・ノヴェルである。ボスの依頼を受けて、上は20歳、下は13歳の黒人少年4人が、組織を裏切った「お抱え」判事を抹殺するべくLAを発って中西部ウィンスコンシン州へと向かう、その顛末が語られていく

黒人の少ない土地へ車を走らせるに当たり、世界というのは白人で成り立っていて、奴らは野球が大好き、ドジャースが大好きとの理由で、少年たちがまずスポーツ店で購入させられるのがドジャースのロゴ入りTシャツ類だ。また、「ドッジボール」語源の「ドッジ」には「かわす、回避する*1」の意味もあることから、このタイトルは先の見通せない危険な任務を負う羽目になった4人組をも指し示したダブルミーニングとなっている

ドラッグを売り捌く「家」界隈の外へ一歩も出た経験のなかった主人公・イーストが、道中で目にする様々な事象や仲間同士の諍いなどを通じて、少しずつ人間として成長する姿を追った物語は、サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」ケルアック「路上」のストリートギャング版といった雰囲気を感じさせ、単なるクライムものとは一線を画す文学的な香りが漂う

特に、イーストが彷徨いついたオハイオ州のペイントボール場(サバイバルゲームを行う施設)で職を得て、管理や雑用を任されるうちに白人オーナーとの間に絆が芽生える後半部の展開が上手い。著者は英文学の研究を専門とする方らしいが、なるほどストーリーの作り方をよく理解している。さらにその情景が今にも頭に浮かんできそうなエンディングのタッチも憎いばかりで、これが長編デビュー作とは凡そ信じがたいような仕上がりだ。ドジャースとLAの街をイメージさせる「青」を基調としたカヴァーデザインもGoodである

  • 書名:「東の果て、夜へ」("Dodgers")
  • 著者:ビル・ビバリー
  • 訳者:熊谷千寿
  • 出版社:早川書房
  • 本の長さ:448頁
  • 発売日:2017/09/07

*1:LAに移転する前のドジャースはNYのブルックリンに本拠を構えていた。当時のブルックリンには路面電車が多く、それをよける人々=ドジャースがチーム名の由来。ブルックリンを舞台にスパイク・リーが監督・脚本・主演を務めた映画「ドゥ・ザ・ライト・シング」では、主人公がドジャースのユニを着て登場する

映画「カード・カウンター」(2021)

監督・脚本を務めるポール・シュレイダーの最新作「カード・カウンター」は、タイトルから連想される通り、「ハスラー」や「シンシナティ・キッド」(劇中の台詞で両者に言及される場面あり)の系譜に連なるギャンブラーものだが、それらとやや趣を異にするのは、カード賭博の話と並行して、戦争犯罪にまつわる復讐劇が展開される点だろう。その2Ways構成は、大統領候補の暗殺とポン引きに搾取される家出少女の救出とが交差する「タクシードライバー」(シュレイダー脚本)に通じてもいる

さすらいの賭博師が切った張ったでカジノを渡り歩くだけの単純なドラマに留めず、そこに社会的な視点を加味したアイデアは、如何にもシュレイダーらしく、内省的な主人公の独白を用いて、最後まで一定の緊張感を保ったまま進む語り口には熟練の技が窺える。ただ、そうした意欲が若干空回りを起こし、結果として「二兎を追う者は」になった部分は否めない。特にパトロン女性と共に臨んだカードゲーム大会の描写があまりに中途半端で終わったのは残念だ

感情を全く露わにせず、終始抑制された演技を見せるオスカー・アイザックの雰囲気や表情に、時折若きロバート・デ・ニーロの姿が重なって映った。またパトロンに扮したティファニー・ハディッシュもキュートで美しい(彼女がスタンドアップ・コメディアンと聞いて驚いた)。エンディングにおけるふたりのシーンは、演出家シュレイダーの名を高めた「アメリカン・ジゴロ」のラストを想起させ、どことなくセルフ・オマージュのようにも受け取れる

  • "The Card Counter" 111分 (米・英・中・瑞合作)
  • 監督:ポール・シュレイダー
  • 脚本:ポール・シュレイダー
  • 撮影:アレクサンダー・ダイナン
  • 出演:オスカー・アイザック、ティファニー・ハディッシュ、タイ・シェリダン

(2023-68)

「春の雪」三島由紀夫 著

文学だろうと大衆向けの作品だろうと、物語というものはやはり面白くなくてはならない。小説に限らず、映画の世界などでも、一般に難解=質が高いと思われがちだが、如何にして物を語るかという見地に立てば、読み手側の頁を繰る手が止まらなくなるほど面白い話こそ評価されるべきと言ってもいい

その意味では、輪廻転生をテーマとする四編から構成された「豊饒の海」の導入部分に当たる本作の展開は、三島由紀夫らしい濃密な文学的香りのなかに或る種のエンタメ的要素が加わって、この上なく面白い仕上がりとなっている。若き男女の悲恋を描いた内容を面白いとするのは適切でないかもしれないが、絶妙な語り口によるメリハリの利いた展開はやはり面白いのだ

主人公たる侯爵家の長男・松枝清顕(まつがえきよあき)を取り巻く登場人物の顔ぶれが個性に溢れ、話に彩りを添える。特にヒロイン綾倉聡子を世話する老女・蓼科(たてしな)の手練手管に長けた様子は優雅さの裏に隠された人間の煩悩を露わにし、強いインパクトを残す

三島由紀夫の豊かな語彙力と表現力に心を奪われっぱなしだった。ほんの些細な描写ですらも美しき絵巻物の如き記述へと昇華させてしまう彼の筆はまるで手品師の扱うステッキのようである。こんな風に言葉を操れたなら、どんなに素晴らしいか。なかでも私が惹かれたのは以下の引用部分。皇室への輿入れが決まっていながら、幼馴染である清顕との禁断の愛に胸を焦がす聡子。人目を忍び鎌倉の浜辺で彼と肌を重ねた聡子のことを、清顕の親友にして逢引を手助けする本多が学習院の同級生から借り受けた車を使って東京へ送る場面での一節だ

車はすでに東京の町へ入っていたが、空はあざやかな紫紺になった。暁の横雲が、町の屋根に棚引いていた。一刻も早く車が着くようにと念じながら、彼は又、この人生に又とないふしぎな一夜が明けるのを惜しんだ。耳のせいかと思われるほど、ごくかすかな音が、多分聡子が脱いだ靴から床へ落とした砂音が背後にきこえた。本多はそれを世にも艶やかな砂時計の音ときいた。(本書302頁、303頁より抜粋)

短いパラグラフのなかに情景と心情を巧みに織り交ぜたタッチはあまりに見事で、それを表す平仮名と漢字の配分も完璧に近い(「あざやか」や「ふしぎ」を意図的に平仮名にしてバランスを取っていると思われる)。さらに「きこえた」から「きいた」で締める流れ方も絶品だ。何よりも砂音と砂時計(聡子と清顕の関係にタイムリミットが迫っていることの暗示)の連鎖が素晴らしい。文士における「天才」をひとり挙げるならば、やはり三島由紀夫以外にいない

現在書店に並ぶ新装版では、三島由紀夫に影響を受けた小池真理子が解説を執筆と小耳にはさんだ。個人的にはこの解説もちょっと読んでみたいところである

  • 書名:「春の雪」【豊饒の海(一)】
  • 著者:三島由紀夫
  • 出版社:新潮社
  • 本の長さ:480頁
  • 発売日:2002/10/01