一筆☆啓上

観た映画、読んだ小説の印象を綴ります

「一九八四年」オーウェル 著

オーウェルが書いた近未来世界から40年の節目を迎えたこともあって、今年読む最初の一冊には本作を選択した。この小説に目を通すのはもうこれで何度目かとなる。コンラッド「闇の奥」と同様、小生ごとき凡人では永遠にオーウェルの意図した真理へは辿りつけないだろうと思いつつも、その抗いがたい哲学的ディープさに魅了され、いつの間にかまた頁を開いてしまう、そんな物語だ

様々な考察は専門家たちに任せるとして、ただ単に小説が好きなだけの素人に過ぎない私は「一九八四年」を、極端に思考が閉ざされた社会における「生」へのあくなき渇望を描いたラヴストーリーとして捉えている。三部で構成された話のほとんどが重く澱んだ暗灰色のシーンで展開するなか、主人公ウィンストンと恋人ジュリアのアナーキーな逢引に主眼が置かれた第二部のみに色彩を感じるのは、きっとそこに人間らしい情欲が描かれているからなのだろう。密会場所たる骨董品店の二階部屋からふたりが見た、庭で洗濯物を干す女の逞しい姿は市井の人々が生きながら死んでいる時代の「生命力」を象徴し、彼女の持つ美しさにウィンストンが気づかされる場面は取分け印象に残る

興味深いのは、ビッグブラザーなる男の独裁政権下において、党に属す中間層の人々が私生活は勿論、思想に至るまで徹底して監視管理されているのに対し、人口の85%に当たる下級層(劇中ではプロールと呼ばれる)には酒やサッカー、ポルノグラフィなどの娯楽・嗜好がある程度許容されているところだ。目前に適度の飴を差し出され、骨抜きにされた民は支配者にとって全く脅威の存在ではないという部分に、一般的な「全体主義」の解釈とは異なるオーウェルの着眼点が窺える

党が推進する政策のひとつに言語の置き換えが記されている。同じ意味を表す言葉の集約(例えば、「とても」「大変」「非常に」「この上なく」を「超」「倍超」に)、あるいは語句を省略して縮める、これら指針の裏側には語彙を減らして知性を削ぐ政府の狙いが透けて見える。よく考えれば、我々は似たような変換を普段何気なく行っているわけだが、もっと言葉の重要性に関心を持つべきなのかもしれない

人間は考える葦である、と語ったのはパスカルだったか。生成AIの発達で今後ますます思考力が乏しくなる可能性の高い人間に果たして未来は開けているのか。「一九八四年」を手に取るたび、そうした不安が頭をよぎる

  • 書名:「一九八四年」("Nineteen Eighty-Four")
  • 著者:ジョージ・オーウェル
  • 訳者:高橋和久
  • 出版社:早川書房
  • 本の長さ:512頁
  • 発売日:2009/07/18