一筆☆啓上

観た映画、読んだ小説の印象を綴ります

「血も涙もある」山田詠美 著

私の趣味は人の夫を寝盗ることです。などと、世界の真ん中で叫んでみたいものだ。たぶん四方八方から石が飛んで来るだろうけど。そして、この性悪女!なあんて、ののしられたりする。不倫の発覚時には、何故かこういう古めかしい罵倒語が復活するから驚きだ。あばずれとか女狐とか泥棒猫とか。狐と猫、かわいそう。         (本書9頁より抜粋)

のっけから仕舞いまで「詠美節」が炸裂しまくりで、読んでいて大変楽しい小説である。この前に、私が手にした彼女の作品はネグレクトを扱った「つみびと」*1だったが、それとこれとでは雰囲気が全く異なり、改めてその振り幅の大きさには感心させられるばかりだ。私にとって、軽妙洒脱な文章を書ける人は羨望の的でしかないが、なかでも山田詠美の、ヘビー過ぎず、かと言ってライト過ぎもしない、程良いバランスで成り立つ筆致への憧れは強い

高い人気を誇る料理研究家・喜久江、彼女の夫でイラストレーターの太郎、喜久江の助手且つ太郎の愛人・桃子。章ごとに、この三者が入れ替わり、それぞれの視点を一人称で語っていく構成が良い。フィクションにおける不倫ものの場合、兎角浮気をされる側の影が薄くなりがちだが、本作ではその立場にあたる喜久江の気持ちなどをちゃんと記述しているのが特長だ

料理は言うに及ばず、全てを卒なくこなす喜久江は傍から見れば完璧な妻に近いが、生活を共にする太郎からしてみれば、あまりにパーフェクトな故に却って窮屈さを感じた可能性も考えられる。彼が浮気を繰り返したのも、単に尻が軽い以前に、実はそこに根本の理由があったように思う。そんな太郎には桃子が謂わば砂漠のなかのオアシス的な存在なのだろうが、結局のところは都合のいい相手に他ならない

タイトルに反して、この話には血や涙の流れる修羅場はない。喜久江も桃子も当然ながら心の葛藤はあるものの、それを表に出して事を荒だてる真似はしないのだ。不倫が明るみになった後、ふたりは仕事をするうえで公私混同を避けた実に冷静な対応を取る。その彼女らに較べると、太郎はいかにも甘やかされた子供みたいで、いずれは桃子も愛想が尽きて彼のそばを離れていく気がする

倫ならぬ恋を描いた小説を評するのに「愉快」という言葉が適切かはわからないが、読み終えて本を閉じるのが惜しいほどに面白い一作だった

  • 書名:「血も涙もある」
  • 著者:山田詠美
  • 出版社:新潮社
  • 本の長さ:272頁(文庫版)
  • 発売日:2023/08/29(文庫版)

*1:実際に起きた幼児虐待事件をモチーフにしたフィクション。中央公論新社刊