いち読者として、作家・小池真理子との付き合いもいつの間にやら長くなった。今から三十数年前、彼女の書いたエッセイを知人に薦められて書店へと出向いた私が棚から選んでレジへ差し出したのは、魅惑的なタイトル(「知的悪女のすすめ」)が付された随筆とは別のサスペンス小説(「プワゾンの匂う女」)で、それが著者の作品に触れるきっかけとなった。非常に多作なため、出版物全てに目を通すことは出来ないが、時々ふとその品格漂うセンテンスに逢いたくなる。そんな「付かず離れず」のままに、これまで小池文学を愛読してきた。文庫最新刊に当たる本作は、自分の留守中に両親が殺害されるという過去を背負った少女の人生を周囲との交わりを絡めて描いた大河ロマンで、読書の醍醐味を堪能させてくれる一編でもある
この「神よ憐れみたまえ」で表されるのは色々な愛のカタチだ。主人公・百々子(ももこ)の両親がひとり娘に注ぐ大きな愛、突然の悲劇に見舞われた百々子へ温かい手を差し伸べる家政婦・たづと夫・多吉による無償の愛、百々子がたづの長男・紘一に寄せる叶わぬ愛、そして物語の中心に据えられた、百々子の叔父・佐千夫が姪に抱くインモラルな愛
歪んだ愛を単に扇情的でアブノーマルなものとして扱わないところが小池真理子の小池真理子たる所以と言ってもいい。血縁の百々子に対する抑えきれない佐千夫の気持ちは道徳という枠組みだけで容易く解決は出来ない。だからこそ彼は悩み苦しむ。そこへ至る感情の裏側には異父姉にして百々子の美しき母・須恵への幼い頃から持ち続けた愛なども窺える。佐千夫が百々子に惹かれたのはもしかすると彼女が須恵とよく似ていたからなのかもしれない。カヴァーフォトに使われたベルニーニの彫刻*1は、斯様な佐千夫と百々子の関係性を如実に示している
文字通り「山あり谷あり」の人生だった百々子が還暦を過ぎてようやく細やかな幸せを手にしたと思われたのも束の間、身体に変調をきたす。病の影響で記憶が覚束なくなった彼女とかつての恩師が久々に再会を果たす件は、ふたりの言葉にならないエモーションが行間から溢れ、文字を追う私の視界は涙で霞んだ
小池真理子が夫で同業の藤田宜永を亡くしたのは本作を執筆している最中のことと聞いた。こうした大きな喪失感を糧に、彼女が作家としてさらなる高みへと歩を進めたのは間違いない
- 書名:「神よ憐れみたまえ」
- 著者:小池真理子
- 出版社:新潮社
- 本の長さ:768頁(文庫版)
- 発売日:2023/10/30(文庫版)
*1:アポロンの求愛を拒むダフネが父に助けを請い、その姿がまさに月桂樹へ変わらんとする瞬間を捉えたバロック芸術の傑作(ローマ・ボルゲーゼ美術館所蔵)