映画「清作の妻」(1965)
本作を監督した増村保造に対し、私は「愛とエロス」を撮るフィルムメーカーという勝手なイメージを抱いていたのだが、その思い込みを見事に覆される重厚にして深遠な人間ドラマだった。でもよく考えてみれば、この映画の根底にあるのはひとりの女のエゴイスティックでひたむきなラヴなのだから、やはりこれは如何にも増村保造らしい一本と呼ぶのが相応しいのだろう
時は明治。貧しい家庭を助けるため、お兼は仕方なく還暦を過ぎた呉服屋店主の妾となった。お蔭で一家は食べるものにも着るものにも困らず暮らせはしたが、彼女の心は常に孤独さと寂しさで溢れ返っていた。そんなある日、店主が風呂場で倒れてそのまま息を引き取り、お兼は遺言により大金を手に入れる。ちょうど同じ頃に父親が持病を悪化させて他界したのもあって、お兼は母親と共に、村八分で追い出された生まれ故郷へと帰る。案の定、周囲の風当たりは強く、「阿婆擦れ」と口々に罵りながら白い眼を向ける人々。お兼は連中を全く相手にしなかったものの、漫然と無為な日々を送る彼女の気持ちは鬱屈としていた。しかし、隣家に住む若者・清作(せいさく)が戦地から戻ってきて、ふたりの距離が徐々に縮まったことでお兼のなかに変化が生まれる
~ 以下、映画のクライマックスに触れています ~
異性あるいは同性とのセックスを伴う愛は、対象を独占したいという感情が絡む以上少なからずエゴイスティックなものなのではなかろうか。従って、夫の清作を再び戦地へ送り出して死なせたくないばかりに、彼の両目を五寸釘で突いたお兼の行為も極端な形での愛の表現には違いない。「戦場で命を散らしてこそ日本男児の本懐」的な風潮がまかり通る時代に、お兼の取った振る舞いは、計画性のない咄嗟の出来事とは言え、ある意味国家への反逆と受け取られかねないが、彼女にとって何よりも重要だったのは個人のささやかな幸せであり、その点においては現代の感覚に近いのかもしれない
事件後、お兼は懲役二年の実刑で収監。以前は模範兵として村民にもてはやされた清作は盲目になるやいなや「非国民」「役立たず」と蔑まれ村八分に。だが、これをきっかけに清作がお兼の今まで背負ってきた人生の悲哀に身を持って気づかされる件は我々のハートに直球で訴えかけてくる
村を飛び出さず、あくまでもそこに踏み留まる決意を固める清作とお兼。畑を一心不乱に耕すお兼とそれを心眼で見つめる清作を映したラストシーンが印象深い。「清作の妻」は純愛物語であると同時に、偏見や差別との闘いの物語でもある
90分強の作品ながら、内容は三時間の大作にも匹敵する重量感。まごうことなき日本映画のマスターピースだ
- "Seisaku's Wife" 93分 (日)
- 監督:増村保造
- 脚本:新藤兼人
- 撮影:秋野友宏
- 出演:若尾文子、田村高廣、殿山泰司、成田三樹夫
(2023-54)