一筆☆啓上

観た映画、読んだ小説の印象を綴ります

映画「クルーシブル」(1996)

数々の秀作を監督したエリア・カザンアカデミー賞の式典で名誉賞を贈られた際、俳優のリチャード・ドレイファスエド・ハリスがそれに反対する姿勢を見せたのは記憶に新しい。かつてカザンは、ハリウッドを含めてアメリカ中を席巻した「赤狩り」において、公聴会で同胞の名前を明かして調査に協力し、映画界から追放の憂き目に遭うのを逃れており、ドレイファスたちは仲間を売った彼が名誉賞を授与されるのはおよそ相応しくないと考えての意思表示だった

もし私が以前のカザンと同じ立場ならどうしただろうか。独り身ならいざ知らず、養うべき家族がいて、外部からの強烈なプレッシャーに晒され続けたとしたら、最後まで決然とした態度を貫くには相当な困難が伴う。誰もがあのダルトン・トランボ(証言を拒み、実刑判決で収監された脚本家)のように強くはなれない

この「クルーシブル」は、赤狩り最中の50年代にアーサー・ミラーがその批判を込めて書いた戯曲(内容は実際に起きた魔女裁判に基づく)を映画化した作品で、脚本はミラー自身が手掛けている

17世紀末、敬虔な清教徒の人々が暮らす北アメリカの小さな村。ある日の深夜、森のなかに年頃の少女が沢山集まって、意中の男性に魔法をかけるという他愛のない儀式を行っていた。使用人の身ながら奉公先の主人ジョンと関係を持ったがために妻エリザベスから解雇された件を恨むアビゲイルは、ジョンへの断ち切れぬ恋心もあって(エリザベスに対し)呪いをかけるべく、生贄として供されていた鶏の血を呑み、それがきっかけで全員が半狂乱のトランス状態に陥る。翌朝、儀式へ参加していた牧師の娘が昏睡状態になったことから、教理に背いて浮かれ騒いだ自分たちの行為が咎められるのを恐れたアビゲイルは全てが悪魔の仕業と虚言を重ねて、次々に罪のない村人を悪魔の使いへと仕立てていく

同調圧力と集団ヒステリーに関しては、SNSが一般的な存在となった現代こそ昔以上に切実な問題と言えるかもしれない。別に調べたわけではないが、「空気を読む」という表現が頻繁に使われだしたのもSNSの普及と関連している気がする。協調性は勿論大切だが、他人との軋轢を敬遠してただ何となく長いものに巻かれてしまうのは危険でもある。物語の最後でジョンは葛藤の末にひとつの決断を下すが、彼のような勇気は持てないまでも、周りの意見や情報に惑わされず常に自分の頭で考える習慣を身につけておくことは必要不可欠だろう

映画自体の出来は、登場人物の人間関係が若干わかりにくいものの、見応えは十分。ダニエル・デイ=ルイスウィノナ・ライダーの共演は「エイジ・オブ・イノセンス」に続き二度目だが、今となってはもはや奇跡に近いコラボレーションだけにふたりの演技から目が離せなかった。機会があれば、次はぜひ舞台を観劇してみたい

(2023-51)