一筆☆啓上

観た映画、読んだ小説の印象を綴ります

映画「地獄の黙示録 特別完全版」(2001)

地獄の黙示録」オリジナル版が劇場公開された当時中学生だった私は、映画マニアやミリタリーマニアの級友らがを本作を象徴するヘリコプターでの襲撃シーンの凄さを口角泡を飛ばしながら語っていた姿をよく覚えている

ヒロイックなワーグナーの音楽をバックにまるで正義の使いが悪なる者を制裁するかのように映らなくもないこのシークエンスだが、冷静に考えればここで描かれているのは、ヴェトナムでは稀な波乗りポイントでサーフィンを行うというあまりにも愚かな理由で低空から無差別に人々を掃射したうえナパーム弾を投下して村を丸々焼き払うという「大虐殺」の場面に他ならない

榴弾を持ってヘリに近づき自爆するヴェトコンの女に向けて「空の騎兵隊」指揮官キルゴアは「野蛮な奴め」と毒づくが、野蛮さの点では「朝のナパーム弾の匂いは格別だ」などと平気で話す彼も何ら変わらず、さらにはそれを目にして、たとえフィクションであるにせよ、血湧き肉躍らせている観客もまた同じと言えるのかもしれない

アメリカ陸軍史上最高の知性を有しながらヴェトナムの奥地へと入る過程で体験した様々な出来事により常軌を逸していったカーツは「人間とは所詮ケダモノに過ぎない」ことを肌身で感じた人物であり、自分を殺しにきたウィラードの前で「我々は頭に藁の詰め込まれた空ろな人間だ」と朗読するTSエリオットの詩こそが彼の偽りなき本心を代弁していたのだろう

自らの死に場所を求めていたと思われるカーツが今際の際に口にする「地獄だ、地獄だ」には、そんな不完全な人間があたかも「万物の霊長」の如く我が物顔で振る舞い支配するこの世の全てが地獄だの意を含んでいたとも受け取れる

原案となったコンラッドの小説「闇の奥」と映画「地獄の黙示録」における決定的な違いは、前者では象牙取引などを行う商社の一員として未開地に文明をもたらす理念のもとコンゴ河を上ったまま連絡を絶ったクルツの実態を「探る」べく臨時雇いの船乗りマーロウが奥地へと入っていくのに対し、後者ではアメリカ国家並びに陸軍組織の謀反人カーツを「抹殺」する明確な目的を持って諜報要員のウィラードがカンボジアの秘境へと進む点だ

「闇の奥」でマーロウと対峙したクルツはその後ヨーロッパへと運ばれる途中で長らく患っていた熱病が原因で息絶える。この時に商社の支配人付け黒人給仕が言う「クルツの旦那、死んじまったよ」の一文は、密林が生い茂る大自然の驚異にいともたやすく吞み込まれる人間及び文明社会の脆弱さを表すものとして、前述したエリオットの詩のエピグラフにも用いられているが、ウィラードの手でカーツが葬られる「地獄の黙示録」ではこの非常に重要なセンテンスが削られているがゆえに小説の原題となっている「ハート・オブ・ダークネス」の深淵さに達し切れたとは評し難い

ただ、あくまでも「闇の奥」は原案と踏まえ、「地獄の黙示録」は翻案として捉えれば、戦争の持つ「矛盾」、戦場でカーツが殺人罪を問われることやキルゴアの行いが許されてカーツの行いは許されないなど劇中でウィラードが訝しむところ、を突いた部分は興味深く、映画としてのクオリティが高いのは間違いない

「自分を見失いそうになるほどにのめりこんだ役はカーツ大佐くらいだ」と語るマーロン・ブランドは、死が目前に迫ったカーツの独白を45分に渡る即興で演じたと自伝に書いている。剃刀の刃の上を這うカタツムリを頭のなかでイメージしたその部分は結局本編では使われずテープ録音の声で一部が再生されるに留まったのは誠に残念である

(2022年12月に他サイトへ書いた記事を部分的に加筆修正し再掲)Photo by Mary Ellen Mark