一筆☆啓上

観た映画、読んだ小説の印象を綴ります

映画「雨のしのび逢い」(1960)

周りのことなどお構いなくスマホの画面を一心不乱に見つめる人々の目には、道端に咲く花の可憐さも夜空に浮かぶ月の輝きも映るはずはなく、いずれは「情緒」という言葉も死語になる日が来るのではないか。最近はふと、そんなことを考える

本作はまさにその「情緒」で彩られたような作品だ。デュラスの書いた原作は未読のため単純に比較は出来ないが、他者との共同で彼女が脚本を担っているので全体の雰囲気は(小説に)近いと想像される

フランス南西部、海沿いの街。製鉄所経営者の夫とアンヌの関係は冷え切っており、息子ピエールだけが彼女の希望だった。ある日、ピエールが通うピアノ教室そばのカフェで痴情絡みの殺人事件が起こり、犯行直後の現場に居合わせたアンヌはそこで製鉄所勤務の男ショーヴァンと出会う。やがて何度か顔を合わせるうちにお互いが惹かれるアンヌとショーヴァン。だがそれは常識に縛られた小さな社会では決して許されぬ恋だった

原題の「モデラート・カンタービレ」は”普通の速さで歩くように”を指す音楽用語らしい。ピアノ教師はピエールがなかなかこれを理解しないことに(彼は教師に反抗して理解出来ないフリをしているみたいだ)苛立ちを隠せず、レッスンを見学しているアンヌはいつも「後で言って聞かせます」と受け流す

音楽は聴くばかりで演奏に関しては全く門外漢な私個人の解釈にはなるが、このタイトルには既成概念の意味が含まれているように思われた。クラシック音楽の世界では、楽譜のなかで仮に「モデラート・カンタービレ」の指示が記されていたとして、そのパートで約束事を無視し、例えばビル・エヴァンスセロニアス・モンク(共にモダンジャズ界を代表するピアニスト)の如く独創的な即興プレイをするのは恐らくご法度に違いない。それはどこか、家庭内における夫の傲慢な態度に内心で辟易しながらも、周りには良き妻、良き社長夫人、良き母として自分の気持ちを抑えて振る舞わなければならないアンヌの姿と重なって映る

こうしたアンヌの乾いたハートに潤いを与えたのがショーヴァンの存在だ。彼女が自らの括りを解放し、彼に「愛している」と伝える場面は格別に美しい。しかし街の誰もがアンヌを知る小さなコミュニティでは詰まらぬ噂がスキャンダルの種となり彼女を辛い立場に追いやることに気づいているショーヴァンはただ黙ってその言葉を胸の内にしまい込む

ベルモンドと言えば、ルパン三世のモデルにもなった通り、「二枚目半」あるいは「三枚目」的要素が持ち味の俳優だと思うが、本作ではコミカルさを封印して、陰のある男ショーヴァンを好演。一方の、台詞には示されぬアンヌの心境を眼差しや表情、仕草で的確にフィルムへ刻むジャンヌ・モローの素晴らしさは改めて称賛するまでもないだろう

話の流れはアンヌとショーヴァンの出会いから別れまでのわずか「七日間」を描いたものなのだが、やや残念なのはその時間経過が今ひとつはっきりしない点だ。小説の構成はどうなっているのか(日付ごとに章が分かれていたりするのか)ちょっと気になる

最後に余談となるが、「雨のしのび逢い」に雨の降るシーンは一切出てこない

(2023-49)